2012年5月15日 (火)

九尺藤

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さる寺の境内。本堂の横に惚け封じ観音が立つ。
「アホな家人に惚けが加わりませんように」と手をあわす隣で、家内は「主人の惚け症状がこれ以上悪化しませんように」と祈り、珍しく互いの身を案じ合う(^_^)。
その後しばらくして「おい、あそこでお賽銭いれたか」「あ!忘れてる」

霊験あらたかな観音様でも、お互いの症状の回復までは無理なようだ。
(写真は境内に咲いている九尺藤)

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2012年5月 7日 (月)

1時間50分

バスに乗る。乗客は私ひとり。顔なじみの運転手さんと「え〜の、俺ひとりで」「どうぞ、どうぞ、お気になさらないで」と世間話をしながら揺られること35分。JR新三田駅に着く。ちょうど新三田発高槻行きの各駅停車が停車中で乗車。宝塚で降りる。バスの運転手さんは「ここからはJRで行くよりも阪急の方が早いかも」とアドバイスをしてくれたが、同じホームに東西線の快速が止まっていたのでわざわざ阪急まで行くよりもと、これに乗り換え、尼崎着。又東海道線快速に乗り換えて大阪駅着。更に各停に乗り換えて最寄りの駅に着いたのだった。家に帰るまでの所要時間は1時間50分。

ゴルフ場からの帰り道は高速道路の大渋滞が予想されたため、電車とクラブバスでゴルフという、初めての経験をしたのだった。往路は別の電車で行ったのだが、降りるのは「最後尾の出口」と口を酸っぱく言われていたのにも関わらず、進行方向の出口に行ってしまい、大慌てする一幕も。往路復路共に、渋滞時と同程度の時間か若干早めだったが、いらいらすることも無く精神的にはよかった模様。

最近、車の悲惨な事故が相次ぐ。運転する者としては人ごととは思えず、長年、車で通い慣れたゴルフ場だったが、この機に電車も使ってみようと思い立ったのだった。でも、GW、お盆などを除けば、多少の渋滞でも車の方が明らかに早い。まだ当分は車中心の道順となりそう。ただ、齢と己の老化具合をよくよく見極める必要性が増していることだけは充分に理解しているところでもあるのだ。

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2012年4月30日 (月)

隅田川

「隅田川」と言う能を観た。物語はかなりポピュラーなのでご存じの方も多いと思うが、都で人攫いにあった我が子を探しに母親は物狂いとなり武蔵国隅田川ほとりまで来る。しかし子は既に死んでいた。母がその塚に「南無阿弥陀仏」と唱えていると塚の中より子供の声で経に唱和する声、そしてその子の亡霊が母の前に現れたが夜が明けると共に失せて行く。我が子と思いしは、塚の上のぼうぼうとした草であった。という悲劇だ。舞台の見せ場はシテ、ワキ、地方と大人の声の誦経の中に、突如、おさな声の甲高い経が響き渡るところ、ここからは筋を知っている者でも涙を流してしまうのだ。

私もぐっと涙を堪えたのだが、ただ物語とは別に関心を持ったのは、塚の中に子供はいつ入ったのだろうかと言うことだった。舞台に塚が運び込まれる最初から入っていたのか、それだと1時間以上入ったままで待機して居なければならず、多分小学校低学年と思われる子役にはかなりの苦痛を伴う。ふと気付いたのは物語の後半に入るくらいに、シテワキの絡みの最中、後見が黒い布に何かを覆って塚の後ろでごそごそしていたの事を思い出す。あ〜あの時に入ったのかとやっと納得。

この物語の主役はシテではなく、短い登場だが文句なく子供、退場の時、塚に入ったままで姿の見えない子供には万雷の拍手だった。素人感覚では、物語が終わったのだから、子供には塚から出てもらって姿を見せて退場させた方が、効果的とも思われたが、そうはさせず、塚に入ったまま姿をさらさせないところに、能のポリシーと研ぎ澄まされた感性があるのかも知れない、と感じたりしたのだった。

まだ、ご覧になっていない方には強くお勧めする能の一つだ。

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2012年4月24日 (火)

日光 月光

我が家に咲いた日光椿と月光椿。(ブログ書き込みの時は、写真の配置がわからぬので、兎に角、たくさん咲いているのが月光椿)
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2012年4月23日 (月)

五浦

「五浦と岡倉天心の遺産展」(京都・高島屋)というのを見に行く。「五浦」は「いづら」と読み、茨城県北茨城市の中の地名。ご存じと思うが岡倉や横山大観、下村観山らがこの地で日本画の創作活動を行った。今の院展の発祥の地と言って良いと思う。昨年の津波で国の名勝の天心が愛した六角堂が海に流された地だ。展覧会はその六角堂の再建記念の意味合いもあるようだった。展示内容は、大観や観山の絵画に目を奪われて天心の印象が薄いきらいはあるものの、大観、観山らを包み込んでの岡倉天心という構成は感じ取れた。だが見学者は余り多くはなかった。人を集めるにはタイトルに大観あたりを前面に押し出した方がよかったのかも知れない。

何故私がこの展覧会に関心を持ったかというと、去年の3月11日の前日、私は同じ茨城県の水戸に居た。そして、その日はこの五浦に泊まろうかと思案していたのである。もちろん、六角堂と天心グループの跡を訪ねることもあるが、本場中の本場の鮟鱇を食べたいと言うこともあった。結局、胸騒ぎがしたということではないが、家内の都合もあり10日で旅を切り上げたのだった。もしその日に五浦で泊まっていたら、翌日の地震に遭っていたことになる。私のことだから、その時間は六角堂の周囲を飽きもせず徘徊していたかも知れない。我が身は海に流されていた可能性は多分にあったのだ。そんなこともあってこの展覧会には強い関心を持ったのである。

六角堂の管理は茨城大学がしていた。再建も同大学の復興基金の募金でまかなわれたようだ。募金はまだ続くとのこと。足しにもならぬささやかな金額だが、一灯を献じようと申込書を持ち帰ったのだった。

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2012年4月11日 (水)

桜狩

夙川

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2012年4月 9日 (月)

ババ・ワトソン

ゴルフの一大イベント・マスターズはプレーオフの末ババ・ワトソンが優勝。このババ・ワトソン選手、レフティ(左利き)で、飛距離もあり、テレビ観戦の印象ではプレー姿勢もきちんとしていて、顔立ちも端正、これからの世界のゴルフ界の中心選手としてますますの人気を呼ぶだろうことは間違いない。だが、私がもっとも注目したのは、これらのことではなく彼の服装だ。彼はプレーの時シャツの前の第一ボタンをきちんと嵌めていたのだ。だいたいゴルフ選手は第一ボタンは外し、風通しをよく、リラックスしたスタイルでプレーをする。私もそう。しかし彼のその着こなしからは窮屈さは全く感じられず、むしろ清潔感を覚えた。たまたまマスターズという大舞台なので意識したのかもと、インターネットで彼の画像を検索したが、いずれも第一ボタンは嵌めていた。第一ボタンを嵌めるというのは、彼の性格から来るものだろう。確かに見ているものに好印象を与えている。もしかしたらこれから彼の第一ボタンを嵌めてのプレースタイルは、ゴルフマナーの範となるかも知れない。

人様の真似を直ぐしたくなる私は、今後のゴルフでは是非第一ボタンを嵌めてプレーをしようと思っているところである。ただ、長身でスタイルも良いワトソンとはだいぶかけ離れた体躯、着こなしも、帽子は阿弥陀被り、シャツはズボンからはみ出しても頓着せず、ずり落ちたズボンの裾を引きずりながら歩く我がプレースタイルで、第一ボタンを嵌めたからといってどれだけ印象が変わるかは大いに疑問のあるところではあるのだが(-_-;)

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2012年4月 7日 (土)

帝塚山

南海電車の帝塚山駅に降り立つ。目的は橋本多佳子が戦前住居とした家を探すため。年譜によると昭和4年から19年に掛けてこの地に住んだ。詳細を記すことは控えるが、その場所は直ぐ分かった。写真の建造物がそれなのだが、塀も建物も戦前からのものとは言いがたく、新しい所有者が全面的に建て替えた印象を持つ。それでも土地の広さ、周囲の高級住宅街の雰囲気から、豪邸であっただろうことは想像できる。もっとも、家はここだけではなく北九州に櫓山荘を持ち、野尻湖には別荘を使っていたようだ。

橋本家は帝塚山に移り住んでより誓子夫妻との親交を持つ。多佳子は誓子の指導を受け始め本格的に俳句の道に入って行くのだった。この時期に第一句集「海燕」を上梓。

周囲を徘徊していて、戦前のこの一帯の環境は分からぬが、高級感を持つ雰囲気が当時も変わっていないとすれば、住み心地などは別として、果たして俳人の多佳子に似合う地、詩的刺激を湧かせる地であったかは私は首を傾げるところだ。この後に生活の拠点となる奈良・あやめ池の住居の方が、私には生地の多佳子が感じられるのである。

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2012年4月 1日 (日)

我が家の椿

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北九州市の櫓山荘跡の椿。種子を持ち帰りここまでになる。因みに櫓山荘跡とは橋本多佳子が戦前住まいしていたところ。(拡大写真大きすぎたかもしません。設定の失敗)


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2012年3月26日 (月)

4Bの鉛筆

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句会の始まる前、ご婦人が近づいてきて
「あなたにこれをあげる」
と写真の鉛筆を差し出した。
「これは誓子先生が使っていた鉛筆で、私が今まで何よりも大事にしていたものです」
「そんな大切なもの頂くわけにはいきませんよ。貴女がずっとお持ちになってください」
「いいの、私ももう歳だから。あなたが持ってて」
と言うわけでこの鉛筆を頂いたのだった。

彼女が何処でこの鉛筆を頂いたのかは聞かなかったが、想像するに誓子指導の句会で誓子が選をするために使用した鉛筆で、その折に何らかの縁で彼女の手に移ったのではあるまいか。長らく天狼で誓子の指導を受けていた彼女は、その鉛筆を己の俳句の支えとして今日まで持ち続けてきたのだった。誓子は鉛筆は必ず4Bを使用するそうな。芯が柔らかいため強く抑える必要もなく、使いやすかったのだろう。写真にも4Bが見えるはず。

私の手元には、誓子の著作のほとんど、それもすべて署名入りの本、掛軸、色紙など誓子関連のものは以外と多く入手している。それはお金で購入したものだけではなく、亡くなられた方からの遺言で移ってきたもの、遺族の希望でお預かりしているものと入手経路はいろいろだ。それらに加えてこの鉛筆が加わったのだ。

私は誓子の直接の指導は受けてはいない。従って、誓子の触れた鉛筆といっても、彼女のような思い入れとは差があるかも知れない。だが、彼女が私に託したと言うことは、大事にして欲しいという事と共に、これからも真摯に俳句に真向かいなさいという鞭撻の意味も込められているものと解している。

鉛筆を持ち帰った夜、紙に線を一本だけ引いてみた。4Bだけに芯も太く、又先端が丸みを帯びていたため思ったより太い線となっていた。今はケースに綿を敷きそこに鉛筆を納めている。

今日は3月26日。誓子の命日。没後18年経った。

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«時は流れない。雪のように降り積もる。